子どもを理由にしすぎなんじゃないか?
仕事をするうえでも、生活する上でも
「子どもがいるから仕方ないんです」「できなくて当たり前なんです」
という態度を取るまい、取るまいと思いながら暮らしてきた。
子連れに配慮してもらえる場面というのは非常に多い。(それは非常にありがたい)
でも当事者が「配慮されて当然」と思っていたら、なんだかとても残念だと思うからだ。
復職してから今日まで、理不尽だと思ったことが何度かあった。
たとえば飲み会に出ないのはけしからんと言われたこと。
くだらないと思いながらもそう言われてショックだったし、腹を立てもした。
私には子どもを預けられる実家はない。
シルバー人材やファミサポさんに預けるような年齢でもない(と思う)。
私が保育園に迎えに行けなければ、夫が仕事を切り上げて行くしかない。
重要な用事ならともかくも、単なる飲み会のためにひとの仕事の邪魔をしろというのか?
それをしないことをけしからんと言っているのか?
馬鹿じゃなかろうか?
でも時間が経って、振り返ってみて思った。
私は「(子どもがいるし親を頼れないし夫は激務の)私が飲み会に出ないことを責めるなんて!」と腹を立てた。
自分にとっての聖域である「子ども」の事情を攻撃されたような気がして。
私にとって子どもは重大事項だけれど、他人にとっては関係ないことだ。
もちろん察してくれたり、気を使ってくれる人は大勢いる。
察せなくとも、何か事情があるのかまず聞こうと考えてくれる人もたくさんいる。
自分の目から見えるものだけで断定してしまう人だけが上のようなことを言う。
そういう人相手に内心腹を立てたって時間の無駄なんじゃないだろうか。
私は「子ども事情」を攻撃された気になって傷つくのではなくて、
「まあそうは言っても出られないしねー」と軽くスルーしておけばよかった。
子ども事情を攻撃された怒りというのは、裏を返すと「子どもがいるんだから仕方ないんです!」ということで、
それって、私が避けようと頑張ってきた思考だったんじゃないだろうか。
満員電車ベビーカー論争も同じかもしれないと思った。
「満員電車にベビーカーを乗せるな、邪魔、迷惑、タクシー乗れ」と言う人は「子ども」事情を攻撃しているかに見える。
だから言われた方も感情的になるし、擁護派も入り乱れて論争が広がる。
でも、これって子どもじゃなくても同じなんじゃないだろうか。
「満員電車にでかい荷物を乗せるな、(以下略)」とかであっても。
言う方も言われた方も、子ども事情に意識が向きすぎている気がする。