IKISG

都内在住、IT職フルタイム、1児の母。親に頼れず、夫は多忙のワンオペ育児。巷のメディアに取り上げられるワーキングマザーはスーパーウーマンすぎて身近に感じられない。普通の人でも、親に頼らなくても働くにはどうしたらいいのか考えています。生後5か月の子を認証園に預けて復職し、1歳で認可園に転園。復職から3年ほどの人が書いています。

優しさを毀損する表現(ソチオリンピックを見ての所感)

昨日たまたま、ソチオリンピックのことをやっているテレビを見かけた。

渡瀬選手がインタビューに答えているシーン。

競技はノルディックスキー・ジャンプ男子団体。(今調べた)

渡瀬選手は団体戦のメンバーから外れたのだそうだ。

 

細かい言い回しは忘れたけれど、渡瀬選手は

「伊東選手が自分のところまできて、「これ借りますわ」といって

自分の手袋をはめて競技に臨んだ」というようなことを言っていた。

 

団体戦にでられなかった渡瀬選手の手袋を

伊東選手が借りて競技に出る。

借りるといっても、

まさか自分の手袋を持っていないことはないだろうから

自分のために借りたわけではない、相手のために借りたということだろう。

 

これは美談のたぐいだと思うが

このテレビを見た時点で、私はいい気持ちがしなかった。

 

自分が渡瀬選手の立場だったらどうだろうか。

気を{使わせて|使われて}しまった…と思うだろうと考えた。

 

(自分が伊東選手だったら、とは考えなかった。

今の自分の立場を勝手に渡瀬選手に重ねたのだろうか。

仮にも相手は世界を舞台に活躍する選手なのだ。失礼千万な話だ)

 

そして今日、どうしても手袋のことが気になり

ネットのニュースで渡瀬選手と伊東選手のことを検索してみた。

 

団体銅の伊東、先輩とメダルつかむ

 

少しテレビの記憶とニュアンスは違うが、まさにこれだ。

この記事を読んで、私はやっといい話だと思うことができた。

 

渡瀬選手の(受けた側の)言葉だけだと、

相手がなぜそういう行動を取ったのかが分からない。

悪意であろうはずもないことは分かるが、

この種の優しさは弱い側のネガティブな感情も引き起こすのではないだろうか。

優しさに対してこんな風に思う自分は嫌な奴だ、という自己嫌悪付きで。

 

だが、リンクした記事では

「雄太さんの力を借りたい」。そう思うと、痛む左膝の不安を忘れた。

 と伊東選手の心情が語られている。

雄太さんとは渡瀬選手のことだ。 

二人は先輩後輩の間柄で、ともに切磋琢磨した仲間だそうだ。

 

団体戦に出られないからせめて手袋だけでも一緒に、ではなかった。

先輩の物を身近に置くことで安心しようとした。

伊東選手の弱さがそうさせたことに、私は感動を覚えた。

 

それは単なる記事の上のレトリックかもしれないし、

それは伊東選手の謙虚さが言わしめたことかもしれない。

それでもいい。

優しさとはこういうものだ、と思った。

 

もしまったく同じ状況で

「今まで一緒に頑張ってきたのに団体戦に出られないのは可哀想。

 せめて手袋をつけていってあげますね。これで気が晴れるでしょう」

などと言われたら興醒めもいいところだろう。

優しさは声高にアピールするものではない。

 

どんな行動を優しさと呼ぶかではなく

どんな気持ちで行動したかが優しさなのではないだろうか。

 

 

復職した私が置かれている状況は、興醒めの例に近い。

 

子どもがいるから、

大変だから、

あまり残業できないから、

ほかの社員がフォローするから。

 

そんな風に言われながら働き続けたいと、

言っているその人たちは思っているのだろうか。

それとも、男である自分たちには

そんな日が来ることなど想像もしていないのだろうか。

 

 

それでも、戻れる場所があったことに感謝する。

 

いつか子どもの有無が、わざわざ言うまでもないくらい

当たり前のことになればいいと思う。