「見立てる」ということ(こどもの遊び)
自分の子が生まれるまで、ほぼ子どもと接点がなかった。
ばたばたと慌ただしい毎日を過ごしながら、ふと気づくと
子どもとは何とすごいのかと驚く。
生後半年が過ぎたころ。
離乳食を食べるようになり、「おいしい」とほっぺを叩く動作を覚える。
これは園の先生がやっていたから見て真似たのだろう。
それからもっと時間が経ち、絵本を楽しむようになる。
お気に入りの絵本の、いちごやみかんのページを見て食べる真似をする。
それからほっぺを叩く。
その絵本のイラストは写真のようにかなりリアルだ。
だからいちごの絵を見れば、記憶の中の実物のいちごと結びつくのは分かる。
食べる真似をするけれど、本当に絵本を口に入れようとはしない。
においも味もないはずだ。
でも「おいしい」の動作をする。
何となく眺めていたが、よくよく考えればすごい。
・いちごの絵を見ていちごと理解する。
・食べる真似をする。(実際には食べないし、本当にほしがったりもしない)
・食べた後と同じ反応をする。
「ごっこ」をきちんと理解している。
こんなにいろいろなことが、1歳やそこらの子どもにできるのか、と驚いた。
更に成長すると、リアルな絵がなくても
そこにあるものを何かに見立てておままごとができる。
赤いからりんごとか、筒状のものはお茶とか、そういった具合だ。
これがまたすごい、と思う。
・何かの特徴を捉えて記憶していて(りんご=赤など)、似た要素を持ったものを代理で使える
・違うものを何かに見立てることができる
これらを言葉で説明されるわけでなく、理解しているということがすごい。
「これは赤いからりんごということにして進めよう」などという合意形成もない。
子どもにとっての見立てやごっこは、現実世界とは境界がないのだろうか。
でも絵本をかじったりしないということは、弁えているということでもある。
もはや何もなくても、見立てる代理品なしでもおままごとは進む。
もちろん「ここにおやつがある体でお願いね」などという合意はない。
でも子どもは笑顔で手の上に何かがある体で「どうぞ」をするし、私も笑顔で受け取って「おいしーい!」と言う。
そこに何もないことは子どもも分かっているだろうし、
私から見ても何もないのも知っているだろう。
それでもおままごとは成り立つ。
ふしぎだ。
おもちゃがなくても子どもは遊べる。
きっとこどもの頃は、私も同じようにできたのだろう。
言い古された言葉ではあるけれど、
「子どもの想像力は無限大」だとか「子どもは遊びの天才」だとかが
しみじみと腑に落ちる。
子どもはすごい。