IKISG

都内在住、IT職フルタイム、1児の母。親に頼れず、夫は多忙のワンオペ育児。巷のメディアに取り上げられるワーキングマザーはスーパーウーマンすぎて身近に感じられない。普通の人でも、親に頼らなくても働くにはどうしたらいいのか考えています。生後5か月の子を認証園に預けて復職し、1歳で認可園に転園。復職から3年ほどの人が書いています。

「見立てる」ということ(こどもの遊び)

自分の子が生まれるまで、ほぼ子どもと接点がなかった。

ばたばたと慌ただしい毎日を過ごしながら、ふと気づくと
子どもとは何とすごいのかと驚く。

 

生後半年が過ぎたころ。

離乳食を食べるようになり、「おいしい」とほっぺを叩く動作を覚える。

これは園の先生がやっていたから見て真似たのだろう。

 

それからもっと時間が経ち、絵本を楽しむようになる。

お気に入りの絵本の、いちごやみかんのページを見て食べる真似をする。

それからほっぺを叩く。

 

その絵本のイラストは写真のようにかなりリアルだ。

だからいちごの絵を見れば、記憶の中の実物のいちごと結びつくのは分かる。

食べる真似をするけれど、本当に絵本を口に入れようとはしない。

においも味もないはずだ。

でも「おいしい」の動作をする。

何となく眺めていたが、よくよく考えればすごい。

 

・いちごの絵を見ていちごと理解する。

・食べる真似をする。(実際には食べないし、本当にほしがったりもしない)

・食べた後と同じ反応をする。

 

「ごっこ」をきちんと理解している。

こんなにいろいろなことが、1歳やそこらの子どもにできるのか、と驚いた。

 

更に成長すると、リアルな絵がなくても
そこにあるものを何かに見立てておままごとができる。

赤いからりんごとか、筒状のものはお茶とか、そういった具合だ。

これがまたすごい、と思う。

 

・何かの特徴を捉えて記憶していて(りんご=赤など)、似た要素を持ったものを代理で使える

・違うものを何かに見立てることができる

 

これらを言葉で説明されるわけでなく、理解しているということがすごい。

「これは赤いからりんごということにして進めよう」などという合意形成もない。

子どもにとっての見立てやごっこは、現実世界とは境界がないのだろうか。

でも絵本をかじったりしないということは、弁えているということでもある。

 

もはや何もなくても、見立てる代理品なしでもおままごとは進む。

もちろん「ここにおやつがある体でお願いね」などという合意はない。

でも子どもは笑顔で手の上に何かがある体で「どうぞ」をするし、私も笑顔で受け取って「おいしーい!」と言う。

そこに何もないことは子どもも分かっているだろうし、
私から見ても何もないのも知っているだろう。

それでもおままごとは成り立つ。

ふしぎだ。

 

おもちゃがなくても子どもは遊べる。

きっとこどもの頃は、私も同じようにできたのだろう。

言い古された言葉ではあるけれど、
「子どもの想像力は無限大」だとか「子どもは遊びの天才」だとかが
しみじみと腑に落ちる。

子どもはすごい。