IKISG

都内在住、IT職フルタイム、1児の母。親に頼れず、夫は多忙のワンオペ育児。巷のメディアに取り上げられるワーキングマザーはスーパーウーマンすぎて身近に感じられない。普通の人でも、親に頼らなくても働くにはどうしたらいいのか考えています。生後5か月の子を認証園に預けて復職し、1歳で認可園に転園。復職から3年ほどの人が書いています。

子どもがいないとわからないこと

そんなものはないんじゃないかな、と思った。

 

子どもがいる人といない人では考え方や行動が大きく違う、かもしれない。

でも私たちはその違いの理由を「子どもの有無」に求めすぎているのかもしれないと思った。

 

若手社員が憤っていた。

「みんな会社のイベントにもっと出るべき。
出られないなら準備を手伝うとか、理由を言うとか、もっと態度があるはずだ」と。

憤りの相手は主に家族持ちの社員たちのようだった。

理由はわざわざ聞かなくても家族がいるからではないか、と思い、
そもそも理由を聞いて何をしたいのだろうか、と思った。

たとえば、理由が「子どもが小さいから」「親の介護があるから」なら許せて、
「友達と遊ぶから」「単に行きたくないから」なら許せない、というようなフィルタリングをするのだろうかとどんよりした気持ちになった。

憤りの社員は企画者でもなく、管理者でもない。

もしフィルタリングをするとしたら、それは本人の正義感を満足させること以外に意義はなさそうだった。

 

話は変わる。

前の職場で私のことをいちばん気遣ってくれたのは
ベテランの既婚者でもなく、もうすぐ子どもが生まれるリーダーでもなく、若い男性メンバーのひとりだった。

「もうすぐ時間だから続きは明日で。おつかれさまでした」

「急な作業が入ったら全部やっておくから残業はしなくていいです」

と事あるごとに手を差し伸べてくれた。

「朝ごはん作って、会社来て、帰ったら夜ごはんつくって家事もやるんですよね。大変ですよね」とも言ってくれた。

私は勝手に、若い男性にとっての「子持ち女性SE」など
仕事を押し付けられるだけの迷惑な存在だろうと思っていたから、この人の気持ちは本当にありがたかった。

自分と違う立場の人について想像する、たとえば朝起きてから寝るまでを想像するなんて
私が独身の頃にしたことがあっただろうか?

そう考えると恥ずかしくなる。

 

憤りの若手社員。気遣いの若手メンバー。 

上に書いたどちらの場面も、その人達は独身で子どもがいなかった。

一方は「子どもがいるからなんて甘え」と言わんばかりの憤りをぶつけ、
一方は溢れるほどの配慮と共感をくれた。

 

子どもがいないからわからない、のではないんだと思った。

そういえばそうだ。

「子どもがいるから分かる」なら、全ての子育て経験者は味方になるはずだ。

でも実際は「私の時はこうだった」「○○しないなんて可哀想」と持論を振りかざしてくる人のなんと多いことか。

子どもがいるから分かる、わけではない。

子どもも親もひとそれぞれで、共通の答えなどない。

 

では何が違うのだろうか、と考えて気づいた。

分かるかどうかではない。分かろうとしているかどうかだ。

その人の属性や立場だけで決まるわけではないのだ。

 

分かろうとすることは難しい。

自分と違うものを見たとき、排除したり批判したりすることはたやすい。

ベビーカーVS抱っこ論争も、母乳VSミルク論争も、紙おむつVS布おむつ論争も全て
相手への配慮を忘れるから起こっているのだと思う。

 

自分は正しいと信じて動くとき、人は傲慢になる。

人への配慮とか共感とかいうようなものを、忘れたくないと思った。