IKISG

都内在住、IT職フルタイム、1児の母。親に頼れず、夫は多忙のワンオペ育児。巷のメディアに取り上げられるワーキングマザーはスーパーウーマンすぎて身近に感じられない。普通の人でも、親に頼らなくても働くにはどうしたらいいのか考えています。生後5か月の子を認証園に預けて復職し、1歳で認可園に転園。復職から3年ほどの人が書いています。

自己犠牲が伴わないと優しさとは呼べない、と考えた --優しさとは何か

かつて、「俺は優しいと思う」と私に言ってきた人がいて、私は2つのことに驚いた。

 

その人は、家族や親友など親しい間柄の人ではない。

仕事上の付き合いしかないし、腹を割って話したことも(私は)ない。

そういう人が上のようなことを行ったのだ。

 

「そんな自画自賛をひとに言ってしまうのか!」という驚きが1つめ。

私は謙虚を美徳と信じていて、たとえ事実であれ自分の長所を堂々と口にするものではないと思っていた。

何かの冗談かと思ったが、口調や表情からそうではないと知れた。

 

そして、私はその人のことを優しいと感じたことは一度もなく、むしろ
「冷たい人だ」「利己的な人だ」と感じていたことが2つめ。

 

自分と親しくなく、優しいとも思えない人が
「俺は優しい」と大真面目に主張するところを想像してほしい。

もはやシュールなギャグだと思う。

 

そのことがあって、優しさとは何だろうと考えてみた。

私が思う優しさというのは、
何らかの自己犠牲が伴っていなければ駄目な気がする。

自己犠牲というと大袈裟に過ぎるから、我慢でもいいかもしれない。

ぐっとこらえる何かがあるのが優しさだと思っている。

 

たとえば自分はとてもおなかがすいていて、小さなパンを2個持っている。

そこにもう一人、おなかをすかせた人が来たとする。

「自分はパンを2個とも食べてもまだ足りないくらいおなかがすいているけど、
1個をこの人にあげよう」

というのが優しさだと思っている。

2個ともあげてしまうのは、家族の愛情とか年長者のやせ我慢といった感じか。

 

さて、前述の「俺は優しい」氏がこの場面に立たされたら
どう行動するか考えてみた。


・「俺は優しい」氏おなかがすいていなかったので、パンを1個あげる。

・「俺は優しい」氏はパンを大量に持っていたので、好きなだけあげる。

 

というイメージしか浮かばない。

「俺は優しい」氏は自己犠牲も我慢もしない人だ、と私は思っていることになる。

不要なものや余っているものなら、人にあげるかもしれない。

そしてそれを優しさと思うのかもしれない。

 

自己犠牲があろうがなかろうが、
優しさを受ける側には何ら変わりはないことは承知だ。

でも、安全圏から何の苦労もせず分け与えることを
私は優しさとは思えない。

 

同じ立場に立たず、どこか高いところから
お情けを垂れているように感じてしまうからかもしれない。

つまり、私は優しさというものを
ある程度対等な人たちの間のもの、と思っていることになる。

 

 

先の震災の時、私は少額ながら義捐金を出した。

あれは優しさだったのだろうか。何か違う感情だったのだろうか。

 

 

優しさとは何だろう。